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ことの葉暦

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椰子の実が運んだメッセージ

小さい頃からなぜかとても好きな唄がありました。唄っていたのは母だったか、それとも周りにいた他の誰かだったかは定かではないのですが、その文語調の古めかしさに風雅がある歌詞と、長調なのにどこか哀しい感じもする、シンプルだけど印象的なメロディーが相まって、子供心に素敵な唄だなあと思ったのです。
まだ小さかったので、その一語一語をきちんと分かっていたワケではなかったのですが、聞き覚えて、今でも奄美の浜を散歩する時などに、よく唄っています。

先日、久しぶりにその唄に触れることがありました。
フジテレビの人気ドラマ「救命病棟24時」に、その唄が出てきたのです。
ある一人の女性が、癌の宣告を受けます。教師を天職として全うし、独り身のままで生きていた彼女には、家族がいなかったので、松島菜々子さん演じる担当の女性医師は、その孤独を気にかけていました。そんな彼女にその女性は、自分が大好きな唄のCDを買ってきてくれるように頼みます。合唱部の顧問だった彼女が、生徒たちと唄った思い出の唄のCDでした。しかし病状が急変し、そのCDを受けとることなく、女性は亡くなります。
その女性のことを寂しい人だと思っていた女性医師は、女性の葬儀に行って、驚きます。そこはたくさんの彼女の教え子たちで、いっぱいだったからです。
車に乗って彼女の棺が旅立っていこうとする時、かつての教え子たちは、自然とそれを彼女が大好きだった唄で送ったのでした。
その光景をみた女性医師は、結婚や先の生活にとらわれることをしないで、天職と思う仕事にただ誠実に生きていこう、そうして送る日々を信頼していよう、と思います。

その唄は、「椰子の実」といいます。

その翌朝、ちょっとした偶然がありました。
私が「椰子の実」を唄いながらよく歩いている奄美の大好きなある浜に、椰子の実が流れ着いたのです。
その浜で暮らす知人が日々出会う素敵な光景を紹介してくれているブログに載っていました。2009年9月9日午前9時9分・・・だったそうです。

「意味のある偶然の一致(という名の必然)」という感じに使われる、「シンクロニシティー」という言葉をきいたことがある方も多いかと思います。それは気付きに、そしてこの瞬間瞬間を生かされていることへの感謝に繋がっていく素敵な現象、という風に私は思っているのですが、この「椰子の実」のシンクロニシティー、しかも見事な9並びには、きっと大切なメッセージがあるに違いないぞ・・・と直感しました。
けれど、その時すぐには、その中身までは分からなかったのでした。

数日後、その知人が今度は「椰子の実」の歌詞を、ブログで紹介してくれました。

それを読んで、思い出した唄があります。



旧約聖書の詩編137節です。
日本のお家には、普通に聖書があることはあまりないと思うので、ちょっと長くなりますが、新共同訳からここに引用します。

 バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。
 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
 わたしたちを捕囚にした民が 歌を歌えと言うから。
 わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌ってきかせよ、シオンの歌を」と言うから。
 
 どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。

 エルサレムよ
 もしも、私があなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。
 わたしの舌は上顎にはり付くがよい
 もしも、あなたを思わぬときがあるなら
 もしも、エルサレムを わたしの最大のよろこびとしないなら。
 
 ・・・(以下略)

「忘れる」とは、「心」を「亡くす」と書きます。
「失くす」でも、「無くす」でもありません。「失くなる」のでも、「無くなる」のでもないのです。

では、「亡くなる」とは、どんな感じがすることでしょうか。
それは、いのちが受け継がれることをされた後だ、ということ。
そして、そのいのちは、時がくれば、再び生まれることをするだろう、という感じ。

だからこそ、「忘れる」は、「思い出す」という言葉と、一緒に対になっているような気がします。

そして、「忘れない」ということは、「覚えている」ということです。
「覚」とは、「意識がそこにあるようになる」ということなように思います。ということは、「忘れる」とは、「そこに意識がない」というだけのことです。いつかそこに、意識が「還ってくる」こともあるんだよ、ということです。

そこで思い到ったのですが、数秘学の世界では、9は「還元する数字」とされます。
例えば7+9=16ですが、数秘の世界では16→1+6=7となります。そこに9が加わることで、7は変化しますが、再び7に戻るのです。また、例えば9×4=36ですが、36→3+6=9となります。9は9であり続けるのです。
9は本質を変えることがありません。なかったことにしないのです。変化しながらも、あり続ける。あり続けながらも、変化する。そんな数字なのです。

「意識が還る」・・・9並びの瞬間にやって来た椰子の実は、そんなメッセージを運んでくれたのかもしれません。

そしてメッセージは、さらに続きます。
上に引用した詩編の一節は、ヴェルディか誰かの歌曲の詞だったり(これも小学校の、バビロン捕囚のことなど何も知らない頃に心魅かれて忘れられなくなった唄です。)、池澤夏樹さんのエッセイだったりと、何度も何度も繰り返し私の前に立ち顕れているモチーフなのですが、今回そこから思い到ったのは、パオロ・コエーリョの「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」でした。
何年か前に初めて読んだ時は、きっとよく分かっていなかったのです。なにしろほとんど中身を覚えていなかったのですから。でも、読み返してみて、涙がこぼれました。今読むことが必要だったんだな、と思いました。
愛に生きることについて書かれた美しいものがたりです。

「人はひとりでは生きられない」と言います。
その一方で、「人はひとりで生まれてひとりで死んでいくものだ」とも言います。
ひとりであるか、ないかは、もしかしたらあまり大切なことではないのかもしれません。
「愛に生きる」とは、生きていることを、生かされていることを愛して生きること、のように思います。
「生きることは道を歩むことに似ている」と言います。
わたしたちが道の上に生かされているのなら、その道を信頼し、その歩みの瞬間瞬間を大切に愛でることができるといいな、と思います。
そこにはいつも、気付かれるのを待っているよろこびがあり、感謝があるものです。

なんだか一周して、「救命病棟~」のエピソードにも繋がりましたね。

昨今の「スピリチュアル」ブームで、守護霊とか天使の声をきく、とか、「高次の存在」に繋がる、とかいうお話も、むやみやたらなぐらいにきかれるようになりましたが、「メッセージを受けとる」ことは、きっと実はそんなに摩訶不思議だったり特別なことだったりはしないんだと私は思っています。
ふとしたことを、愛でてみる。ふとした思いつきを、楽しんでみる。そんな素敵なものたちが、気が付くと手を繋いでいた・・・そんなことを、日々のよろこびにしてみる。
ちょっとした遊びのようなものかもしれません。でも、そんな風に、安心して遊ばせてもらえることを、純心に「子供のように」よろこんで、いいんだと思います。

手を繋いでくれたものたちに、感謝を。

子供のように受けとる香り
   マンダリン 1滴
   プチグレイン 1滴
   ローズウッド 1滴
   
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by leaf-child0802 | 2009-09-15 17:16 | 素敵なものたちのこと | Comments(0)
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