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ことの葉暦

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perspective

今朝も不穏な空模様の東京です。

そういえば、ちょうど去年の今頃は、やっぱりこんなお天気で、奄美のホテルに閉じ込められて、海の観えるお部屋の出窓に、猫みたいに座って、雨と波の音を聴きながら、日がな一日本を読んでいた記憶があります。

秋と冬の間のこんな空模様を、「山茶花(さざんか)梅雨」と呼ぶのだそうです。
山茶花の花言葉は、「困難に打ちかつ」。

山茶花も濡れそぼる雨の中、どうしても出かけなければならないことがありました。
大切な友人のお父さまが、突然、亡くなられたのです。

この世界に生きている全てのものを、どれひとつとして差別することなく、待ってくれているものが「死」です。そういう意味で、死は、決して特別なものではありません。
けれど、先に待つ、死の瞬間を特別なものだと思うことができるから、わたしたちは、生きている瞬間々々をこんなにも特別に思うことも、できるのだと思います。

それでも、「生きていく」ことは、実は、「死に向かっていく」ことと、ほぼ同義語ではあるのですけれど、それでもやっぱり、自分たちのことを自然に「生きもの」と呼ぶわたしたちにとって、死に意識を向けることを怠らずにいるのは、困難に思えたりもするものですよね。

そこには決して、決して悪意などありはしないのだけれど。理不尽などでは、きっとないのだけれど。
世界の、宇宙の、自然の、神さまのはからい、というものは、わたしたちにははかりしれないものであったりもするので、
いつも明るくてしっかりものの友人が、不意に訪れた大切な人の死に打ちのめされて、それでも懸命に、しっかりものであることだけは保とうとしている姿は、ただただ痛ましく感じられるばかりでした。

遠巻きになり過ぎることなく、踏み込み過ぎることもなく、いることしか私にはできませんが、それをちゃんとやらなくちゃ、と思います。

特別に大切に思っている人の死を経験する悲しみは、まるで大きな岩のようで、その人を特別に、大切に思えば思うほど、その岩は大きくて、立ちはだかられた流れは、痛いほどの感触になるものです。
そんな悲しみは、決して消え去ることはなく、その存在感が世界に占める割合は、決して小さくはならないのだろうけれど。
雨に、風に、時に、流れゆくものにさらされることをするのなら、その岩は少しずつ丸い手触りになり、いつか、石になり、砂になり、やがて、土壌となって、ふたたびいのちの豊かさを支え、育むようになれるのではないでしょうか。

お葬式、という儀式は、とてもとても苦しい儀式です。
けれども、大切な、必要な儀式なんだな、と、あらためて思いました。
悲しみが、さらされることをゆるすようになるために。

私はかつて、とてもとても大切な人のお葬式に、出ることができませんでした。
だからこそ、あらためて、そう思いました。

大きな悲しみと共にある人のための香り
   マジョラム・スイート 2滴
   サイプレス 2滴
   ローズウッド 1滴

友人の悲しみを思うばかりのここ数日なのですが、そんな中、今年赤ちゃんを産んだ別の友人が、お家に招いてくれたので、気持ちをしっかりしなくちゃな、と、ふたたび出かけました。
母と幼子の姿、というのは、ほんとうに力強くて、いのちというのは、なんて見事なのだろう、とあらためて感心して、帰って来ました。

いのちの眺めに、くらくらしている、そんな一週間でした。
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by leaf-child0802 | 2009-11-14 12:17 | 季節の言祝ぎ | Comments(0)
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