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ことの葉暦

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耳を澄ませば

さすがに暖房器具のお世話になり始めた、ここ数日。
ほこほこのお布団から離れがたくて、ついぐずぐずしてしまう私に、「早く起きなよ。」と言うみたいにして、オオガスタの新しい葉っぱが、ぴしぴしと小気味いい音をたてて、日に日にその身を解いています。
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オオガスタの葉っぱは、小さいのが芽吹いて大きくなっていくのではなくて、充分に大きく準備されたものがくるくる・きゅっきゅっと巻かれた状態で出てきて、解けて、開いていくんです。

「植物はものを言わない。」などと言いますが、一緒に暮らしていると、彼・彼女たちもなかなか音に満ちた存在であることを、感じます。

最近、こんなCDを手に入れました。
耳を澄ませば_e0170845_1259561.jpg

ジョー奥田さんの「AMAMI」。
奄美の自然音を独自の手法でとらえてらっしゃる奥田さんの存在を知ったのは、2年ほど前に青山のスパイラルホールで行われたイベント。
最近になって、知人のブログで彼のCDがあることに気付き、Amazonで購入してみました。(クリックでモノが買える…というのには抵抗があったのですが、洋書を探すのにあまりに便利なので、抗しきれずにAmazonデビュー、してしまいました…。)

自然音、というと、素晴らしくさりげないBGMとして、とか、リラックスするためにかける、というイメージがありますが、このCDは、ちょっとそういう風には聴けないかも、という感じがしています。
むしろ、耳を澄ませてしまう感じです。

都会よりも自然がいっぱいのところの方が静かだ、というのは、ほんとうではありません。
自然の只中は、ふくよかな音に満ちています。
都会の喧騒は、なんと薄っぺらいことでしょう。
その薄っぺらさが心許なくて、人間は殊更に、賑やかにしようとするのかもしれないな、と思うのです。

先日、奄美を訪れていた時のこと。
私が滞在していたホテルは、ちょっとした高台にあったので、浜までには坂と階段を数分歩くほどの距離がありました。
その夜はあまりに星がきれいだったので、ほんとうに真っ暗な中で、波の音だけを聴きながら眺めたらさぞ素敵だろうと、部屋に備えられていた小さな懐中電灯を頼りに、ひとり浜までおりてみることにしたのです。
新月の夜の闇は想像を超える深さで、結局、視覚以外の感覚を頼りながら、なんとか浜にたどり着くことができました。
ほっとして星空を見上げ、その美しさへと自分の全ての感覚を開放した瞬間。
星の光、だけでなく、波の音、だけでなく、
あっという間に私の感覚は、そこにいることを懸命に語っている数多の音たちで、いのちの気配たちで、苦しいくらいにいっぱいになってしまったのです。
空ろなところなんて、少しもないくらいに、いっぱいに。
みんなが、抱きついてくるみたいで、ふと、帰れなくなる、と思いました。
歩数を覚えておかないと、ホテルへ戻る階段を見失いそうだったし、そういえばハブがいるかも、と我にかえり、早々に帰ることにしたのでした…。

初めて奄美を訪れた時、この島の気配は、まるで幼子のようだ、と思いました。懐こく纏わりついてくる、幼子みたいだ、と思いました。
秘めるということが出来ないみたいにして、他にあり方を知らないみたいにして、生きたいと言い、生かされたいと言っているみたいな、か弱さと、危うさと、潔さと、力強さに満ちた、いのちの気配を感じました。抱きしめたくなるような、愛おしさを感じました。
我が子を眺める母親は、きっとこんな気持ちになるのだろう、と思いました。生きたいと言うものを、生かしたいと思う、よろこびと、苦しさに満ちた気持ち。

そんな場所だったから、きっと自分が思うよりずっと、本能的、といっていいぐらいに、感覚を開放しきってしまったのだと思います。澄んだ底に届こうとするものを、受け容れようとしてしまったのだと思います。
それほどに無防備になることに、慣れていなかったので、あの浜での体験は、ちょっとこわいようでもありました。
でも、自然に生きることとは、そういう感じなのかもしれないな、とも思うのです。
いのちの気配に、いつだって耳を澄ませて、わたしたちが気付こうとしているのは、よろこびであるような、そんな気が、しています。

いのちの気配に耳を澄ます香り
   クラリセージ 2滴
   カモミール・ジャーマン 1滴
   マンダリン 2滴
by leaf-child0802 | 2009-11-19 14:37 | 奄美のこと
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