人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ことの葉暦

leafstar.exblog.jp

True Hope

先日の、「失われない記憶」という記事にご登場いただいた、教会繋がりの知人。
ここのところずっと、信徒さんたちの記録をコンピューターに移す、という作業に取り組んでいらっしゃいました。
古い記録が、戸棚の奥や、箱の底で、手に取るのが大変なあまりに、失われたも同然になってしまわないように。

昨年末、ついに受洗(洗礼を受けること)第一号にたどり着いた!とのよろこびの報告が。

私たちが通う教会で、最初に洗礼を受けたのは、1889年の、生まれたばかりの赤ちゃんだったのだそうです。
けれども、記録によると、この赤ちゃんは、その翌日には天に召されたのだとか…。
ただ、それはこう書かれていたそうです。
「die sequenti migravit ad caelum」=「翌日、天に引っ越しした。」
とても素敵な表現だね、とおっしゃっていました。
私も、そう思います。



私にとって、他の誰にも増してかけがえのない人が、「天に引っ越し」をして、今日でちょうど15年になります。

私たちは皆、愛する者が先に逝くことを、愛する者を見送ることを、必ず経験します。
大切なことなのだ、と思います。
私の場合は、その機会が、いわゆる普通、よりも少々早く訪れました。
かなしかったし、苦しかったけれど、やはりめぐみであった、とわかったような気が、今はしています。



死は、
無になることではないのです。
終わりではないのです。
絶望ではないのです。

死に希望を、意味を、見出していることができなければ、
生にも、希望を、意味をほんとうに見出すことなど、そもそもできないのではないでしょうか。
だって生は、いつだって必ず死に向かっているものなのですもの…。

ただ、死の希望、などと言うと、
終わらせられる、という意味や、
放棄できる、という意味においての
解放、というようなものとして捉えられてしまうかもしれません。
でも、ほんとうの死の希望、とは、決してそのようなものではないと、思うのです。

死してもわたしたちは、世界の、宇宙の一部であって、
そのwholnessへと、
そのholinessへと、
参加し、寄与し続けていくのですもの…。
すなわち、そこにはきっと、果たすべきことが、ちゃんと待っているのです。
それが死の、希望であり、意味なのではないかと、思うのです。



だからこそ、なのだと思います。
私たちが、愛する者の死の経験を、必ず与えられる、というのは…。
大切なことをわかる、かけがえのない機会として…。



ほんとうの希望の香り
   スパイクナード 1滴
   サイプレス 2滴
   ユーカリ・グロブルス 1滴
by leaf-child0802 | 2012-01-18 08:47 | 素敵なものたち
<< The Colour of Snow 幸福論へのintroduction >>