先日、「ハマっています。」と書いた「平清盛」。
この間の日曜日の回で、平重盛が亡くなりました。
それにつけても。
後白河法皇の所業…見るにつけ悲しくなってしまいます。
たとえば今回、
法皇は死の床にある重盛を見舞います。
息も絶え絶えに、涙ながらに、平家を、父を見守ってほしい、と懇願する重盛に、
じゃあ、これにお前が勝ったら、と、
法皇は、すごろく遊びの相手をさせるのです。
それはまるで、
重盛の消えそうな命の灯火に、戯れに息を吹きかけて、揺がせて楽しんでいるかのよう。
平家に焼き討ちされた奈良の大仏の再建に尽力してくださった、
奈良人とっては、恩あるお方、なのですけれど…。
(あくまでも、今回のドラマでの描かれ方においては、ではありますが、)
なんと、残酷な人なのだろう。
そして、
その残酷さは、あたかもこんなことを言っているかのよう…
「どうだ。
私は、哀れであろう。
この哀れさを、敬え。
私の、この苦しみを、尊べ。」
何がしかの大きなことをなす人、というのは、
深い傷を負った人、であったりもします。
それほどの傷を負っても、その人はなお生きていて、
そして、
そのような傷を癒そう、とすることは、
その人の
命の力の、
心の力の、
発露の大いなる機会となり、道となる。
だけど…
時に人は、
傷を癒そう、としながら、
傷が癒えることに、抵抗してしまうことが、ある。
すなわち、
力が発露することを、
そして、
自分を自分らしく語り伝えることを、
傷付いているのだ、ということに、頼ってしまう。
傷口を、再び開き、
そうしてまた、血を流す。
その痛みの感覚に、
生きていることの実感を、頼ってしまう。
だから、
傷が癒えて、もう傷ではないとされることを、怖れ、厭う。
そうあってしまうと、
人は、人を傷付け続けるしかなくなってしまいます。
自分を。
他者を。
それは…
いつまでも、
自分には傷付き欠けているところがある、と思い続けることなのかもしれません。
だから、と、補い満たされることを求め続けなければならないのだ、と思い続けることでもあるのかもしれません。
大変なモチベーションになるのかもしれないけど、
そのような人生は、ただただ、あまりに、苦しい。
たしかに。
苦しむことのない人生など、ない。
それでも。
生きることを、
生まれたことへの復讐にしてしまわないで…。
傷が癒える、とは、
傷がなくなったり、傷でなくなったりすること、ではないのです。
傷が癒えても、
もしかしたら、跡もあり、
痛みもあったりは、するのです。
もう元には戻らない。
だけど、それを、赦せる。
そこに施された手当への、愛と感謝故に。
それが、傷が癒える、ということ、なのではないかな、という気がするのです。
きっと後白河法皇も、
とても傷付いた人であったのだろうな、と思います。
ただ。
傷付いたことがない人なんて、きっといない。
傷に頼って創られ、語られる人生は、悲しい。
どうか。
大切な人を、傷付けないで…。
そして。
その大切な人、は、
あなた自身でも、あるのです。
傷を癒す香り
ラベンダー 2滴
カモミール・ローマン 1滴
フランキンセンス 3滴
おまけ
昨日の夕空。
茜と藍の間には、実はグリーンが、あるんですね。