ブログトップ

ことの葉暦

leafstar.exblog.jp

カテゴリ:奄美のこと( 20 )

gifts for love

e0170845_981867.jpg

(奄美は国直・てるぼーずさんの裏手の、フクギの小道。
 西日がさしこんで、きらきらととってもきれい。)

大好きな奄美で一週間を過ごしてきました。

今回は、
初めてお仕事の機会も、与えていただきました。

今回も、
素敵なお心遣いとご縁を、たくさんいただきました。

今は、
ただただ感謝しかありません。

こんなに幸せでいいのだろうか…
と思ってしまうくらい…。



あまりにも幸せだと、
私たちは時に、
その幸せに、
そこにある愛に、
おっかなびっくりになってしまったりもするけれど…

でもきっと、
幸せで、いいのですね。



この幸せを、
皆さんからの愛を、
屈託なく満喫しなくちゃ、と思います。

屈託なく受けとることをゆるしていてやれなければ、
屈託なく与えることも、きっとできないから…。

おっかなびっくりしていては、
そこにある愛を、
愛し生かしきることは、できないから…。

そのための勇気をも、
もらえたような、
今はそんな気も、しています。

皆さん、ほんとうに、ありがとう。



e0170845_995076.jpg

(これは、生まれて一週間ほどの頃の姪っ子。
 そして、小さな妹が愛しくてたまらない様子の、上の甥っ子。)

花や木や、
空の鳥。
雲や風。
山や、
星や…。

私たちが、憧れることをせずにはいられないもの。
いのちや、魂さえもある、と感じさせられずにはいられない、
もうひたすらに素晴らしく美しいものたち…。

でも、
それらのどれでもなく、
人として生まれて生きたいのだ、と私たちが望んだのは、
人として生まれて生きるのだ、と私たちが決めたのは、
もしかしたら、
なによりも、
愛し愛されることをしたかったからなのかもしれない…。

そんな気がするのです。



そして、
そんな私たちの望みを、
決意を、
神さまはとても、よろこんでくださったんじゃないかな…
そんな気がするのです。



だとしたら、
人として生まれたものはみな、
きっと、
愛し愛される才能を、
授けられて生まれてきています。
むしろ、
そんな才能を、
ちゃんと受けとったからこそ、生まれてこられたのが、
私たち人というもの、なのかもしれません。



だけど。

愛し愛されたい。
その想いのあまりの強さと深さのゆえに、
人は、
愛について、
傷付いてしまったりもする。

そのうちに、
人は、
愛し愛されることを怖れるようにも、なってしまったりします。



私は、ちゃんと愛を与えられるのだろうか?

私が与えたこの愛は、ちゃんと私に還ってきてくれるのだろうか?

私は、愛を与えられるのに値するのだろうか?

私に与えられたこの愛を、私はちゃんとかえすことができるのだろうか?

…と。



いつしか、
愛し愛されることは、
とても勇気のいることになっていたりも、する。



勇気を出そう、という気持ちに、なれています。

皆さんのおかげです。



今日は香りではなく…
e0170845_9111333.jpg

こちらをご紹介。

今回(も)とてもお世話になったススムーチョさんの
「たんかんチェッロ」

「たんかん」は、奄美特産の柑橘で、
この季節のシマの楽しみのひとつ。

爽やかなだけではなくって、
甘く華やいでいて、
繊細で、
それでいてしっかりとしていて、
もうほんとうに幸せなお味なのです。

精油で近いものを、というと、
よろこびへとハートを開いてくれるベルガモット。
「幼子キリスト」のエネルギーに共鳴するマンダリン。
愛を、屈託なく受けとっていくこと。
それでこそ、
愛を、屈託なく与えもできるということ。
そんな、
愛することと愛されることの健やかな巡りを促してくれる精油たち。
この2つのブレンドかな…という感じですが…

やっぱり、体験するならぜひ、この季節の奄美で!
[PR]
by leaf-child0802 | 2013-04-24 09:34 | 奄美のこと | Comments(2)

ケアする人のケア ~奄美のために、できること~

一人暮らしで、一人で仕事をしている私。
気ままで気楽で、満足しているけれど、反面、何か大変なことが起こると、一人でできることの些細さを、思い知らされたりもします・・・。

そんな私が、今唯一日常的に関わりをもっている「人々の集まり」が、麻布カトリック教会。
そこで、奄美のこと、神父様にお話してみよう、と伺ったところ、そもそも鹿児島教区とは繋がりがあったとのことで、明日の日曜日のミサの中で、奄美のためのお祈りと特別献金をすることを、すでに考えてくださっていました。
よかった・・・。

それにしても、いつもは大きな災害にすぐ反応をするTV局やコンビニも、(九州地区以外は)まだ義援金の窓口を設けていないみたいだし・・・。
一人一人だと、何かしたくても、どうしたらいいのか、困ってしまったりもしますよね。

どうしたらいいかな・・・と考えていて、私がひとつ、思いついたことを、ご参考までに、ご紹介。
 
「奄美FMの賛助会員になろう!」
http://www.npo-d.org/pc/(←会員になる方法などが載っています。)
http://dwave.amamin.jp/(←島内の細かい状況などが載っています。)

離島である上、山を越えないと隣の集落に行けないような地形でもある奄美。
なのに、TVも観られず、電話も携帯もネットも繋がらない・・・という状況に陥ってしまったのです。
離島どころか、孤島状態に・・・。
繋がりを感じられない・・・さぞ不安だったことでしょう。
そんな中、人々を繋げ、励まし続けたのが、島のコミュニティラジオ、奄美FMディ!ウェイヴ。
24時間体制で、必要とされるであろう情報や、メッセージを流し続けているそうです。

このラジオ局を運営するNPO法人の代表である、麓憲吾さんに何度かお会いしたことがあります。
島への熱い愛情を持ち、しかもそれをただ情であるだけにしておかない、しっかりと現実社会の中でかたちにして表現していかれる麓さんのことを、すごいなあ・・・と思っていました。

ただ、真正直なNPOにはしばしばあるように、台所事情が苦しいことも、あったりしたようです。
必要とされていることに、応え続けた奄美FM。
その奄美FMが必要としていることに、ちょっとでも応えられたらいいな・・・と思い、賛助会員になってみることにしました。



オーラソーマには、「レスキュー」という名前で呼ばれるボトルが、いくつかあります。
基本的にオーラソーマのボトルは、共有する、ということはしないのですが、それらのボトルは、緊急時、非常時にみんなで使うことができます。とてもパワフルなボトルたちです。
その多くには、ある共通した色が入っています。
e0170845_1434711.jpg

下層の、しっかりと濃い色たち。
この色は、マジェンタ、という色が深まったものです。(↓これがマジェンタ。)
e0170845_14354630.jpg

マジェンタには、神聖な愛、とか、天上からの愛、とか、小さなものへの愛・・・などのメッセージがあるのですが、私がとても好きなのが、「ケアする人をケアするもの」というメッセージ。
他者を助け、他者に与えることをし続ける人が、疲れ切ってしまわないように・・・エネルギーを感じていられるように・・・と、ケアをしてくれる、そんな色が、マジェンタです。

奄美FMのスタッフの方をはじめ、例えば、医療関係者、消防や警察や役場の方、また、いわゆる一般の方、であっても・・・人々を助けるために働いていらっしゃる方の多くも、やっぱり島で暮らしている方=当事者・被災者なのだろうと思うのです。やっぱり、不安や、心配で、くたくたになっていたりも、したんじゃないかと思うのです。
必要とされることを、感謝されることを、力に変えて、やらなければいけないことを、頑張っていらっしゃるのでしょう・・・。

ほんとうに、皆さん、お身体に気をつけて・・・。

ケアする人をケアする香り
   ローズウッド 1滴
   ラベンダー 2滴
   マジョラム・スイート 1滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2010-10-23 15:08 | 奄美のこと | Comments(2)

奄美へ、祈りとエールを。

空が落ちてくる、とか、天の底が抜ける、というのは、ああいうことなんじゃないか・・・と思ってしまいました。

奄美の大雨。

奄美に縁のある方々は、心安らがない日々を、お過ごしのことでしょう・・・。

私のところには、私が奄美を大好きでいることを知ってくれている何人かの友人から、気遣うメールがきています。(みんな、ありがとうね。)

自分にできることで、必要とされていることを見つけようと、たくさんの人が、心を砕いているんだ・・・と感じます。

まだまだ油断ならない状況は、続くとか・・・。
そして空が晴れたそのあとは、元の暮らしを取り戻すために、頑張らなければいけない日々が、しばらく続くのでしょう・・・。

傷は、治さなければ、消えないもの・・・。
ならばせめてその傷が、うむことなどなく、健やかに治っていきますように…。

奄美で生きる人たち(生まれながらのシマッチュだけでなく、シマに根をおろしている人たちも)には、そのために大切な健やかさが、備わっているはず・・・。

敢えて、その理由を。

まず、奄美のみなさんは、「待つ」ということについての智恵を、見失っていません。
都会に生きる人たちが憧れる「島時間」という言葉がありますが。
欲求に「間」を置かずに応えらえることを追求したあまり、「間」を怖れるようになっているようなところがある、都会の生活。「待つ」ことをしなくてよくなって、「待つ」ことが上手くできなくなってきている、都会の生活。
でも、「島時間」に身を置くと、「間」への怖れは、すーっと小さくなっていきます。
そこでは、「待つ」ということについての智恵が、見つけられるから。

かつ、奄美のみなさんは、期待して待つことにただ頼りません。与えられる期待にただ頼みません。
必要とされるよろこびを、自分たちでつくろうとする、賢さと強さと豊かさを、見失っていません。

そして、奄美のみなさんは、愛を見失っていません。
明らかに人が不自然に多い都会の生活では、閉ざしたり遠去かったりすることを上手く覚えないと、自分を守れない、と切実に感じさせられることが多いものですが、そのあまり、開いたり近寄ったりすることを忘れがち、にもなっています。
「愛の反対は、憎しみではなく、無関心。」・・・たしか、マザーテレサの言葉だったと思います。
そんな「無関心」の反対である「関心」を持つことを、奄美のみなさんは忘れていません。

・・・いつもより、ちょっと断定的な言葉を使って、書きました。
でも、これは、こんな心強さは、私が奄美で出会った人たちに、たしかに感じさせてもらったことです。

奄美へのエールだと、思ってもらえると、うれしいです。
信じて、頑張って!

祈りとエールの香り
   シダーウッド・アトラス 1滴
   マンダリン 2滴
   レモン 2滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2010-10-22 10:57 | 奄美のこと | Comments(0)

きになるき

e0170845_1122662.jpg

名前は、知っています。ガジュマルさんです。

ほんとに、日立のあのCMに推薦したくなるような、立派な樹。
奄美空港から、車で15分ほど。赤尾木、という集落にある教会の樹です。
自分で車の運転ができない私。バスだとか、ホテルの送迎車だとか、気ままな寄り道ができないモノに乗って通り過ぎるたびに、窓越しにそっと挨拶をしていた、気になる樹でした。
今回は、ここまでお散歩ができるとっても素敵なところに滞在することができたので、よろこび勇んで会いに行って来たのでした。

旧約聖書は、かつて多くの祭壇が、樹の下に建てられていたことを伝えています。
理由は、木陰が心地よいから。
いつだって、天と地を繋いで、そこに立っていてくれる、大きな樹。
その木陰に抱かれて感じる、守られている、と思える、安らかさ。
それに寄り添って感じる、共にある、ということを、疑わなくていい、という、安らかさ。

日の光も、雨も、風も、鳥たちも、虫たちも、獣たちも、そして、人たちも、そこに集うでしょう。



そんな樹が、こうして教会にあるって素敵だなあ…とずっと思っていました。
そして、今度の日曜日、ここで、なにやら素敵な集まりが、開かれるそうです。
主催されているのは、今回滞在した素敵なところで、お世話になった方。たまたまこの集まりについてのお話をきくことがあって、「それ、いいなあ。」と、心待ちにしていたのでした。
・・・と言っても、東京に戻っている私は、さすがに行けないのですけれど、奄美在住の方々、ぜひ。

木陰の集いの香り
   ファー 3滴
   プチグレイン 1滴
   オレンジ・スイート 1滴

最後に、素敵な樹の本をご紹介。
 長田弘「人はかつて樹だった」
そこに立つことの、ここにあることの、うつくしさを、感じられる詩集です。
[PR]
by leaf-child0802 | 2010-05-21 11:45 | 奄美のこと | Comments(0)

原点

奄美から東京へ、戻って来ました。

今回もとってもよい時間を過ごすことができました。
奄美大島、そこで生きるものたち・ひとたち、そこで出会ったものたち・ひとたち、みんなありがとう!

いつもは、ただあの島に会いたくて、ただゆっくりその許で過ごしたくて、奄美を訪れている私なのですが、今回は、ひとつ具体的な目的も、ありました。

このブログにも度々登場してもらっている、国直でカフェ&染物工房を営む、チャーミングなカップル
大好きな奄美の中でも、とてもとても大好きな国直で過ごす素敵な時間を、いっそう素敵なものにするのに、いつも一役買ってくださっている、おふたりなんですが、それぞれに、とてもアーティスティックな方々なのです。
特に、草木染めやパッチワークという手法での創作活動をされている重照代さんは、かなりの有名人。
そんな彼女の個展が、開催されることになり、行って来たのでした。

場所は、空港の近くにある、奄美パークの中の田中一村記念美術館。
アートファンにも自信をもってオススメできる、美術館です。
その中の、企画展示室、というところいっぱいに飾られたのは、白と黒、その小さな正方形を、ちょっとくらくらするくらいの果てしない細やかさで繋いだ、大きな美しい布たちです。
パッチワーク、というと、フォークロア調やカントリー調のナチュラル系の色合いで、お花だとか、お家だとかといった、素朴な事象が元になっている具象柄、というイメージがありますが・・・
e0170845_12585598.jpg

こんな表現も、できるのですね。
これらの作品は、彼女の創作活動の初期の頃、25年ぐらい前に製作された、原点、というようなものたち、ということなんですが、生地が古びていないとか傷んでいない、という意味合いだけにとどまらず、全く「褪せて」いません。
観るたびに、新しいものが見えてくるような感じ。
e0170845_12591243.jpg

↑実は右端に写りこんでらっしゃるのが、重さんです。作品のスケールが、お分かりいただけるでしょうか。

無限の多彩さへの可能性を感じさせる、文様。近寄ってみると・・・
e0170845_13134611.jpg

全く同じかたち、全く同じ大きさの、白と黒のピースを繋いでできているのが分かります。

奄美出身の歌手、中孝介さんの楽曲「白と黒の間に」に、そういえばこんな歌詞がありました。
(作詞は、小林夏海さん。)
 
 白と黒の間に 答えは無限にある

e0170845_14291116.jpgオーラソーマには、白と黒、に見える色の組み合わせ(正確にはクリアとディープマジェンタ)のボトルがあります。そして、クリアも、ディープマジェンタも、「全ての色を含む」とみなしています。
ボトルの名前は、大天使メタトロン。生命の樹の頂点に位置するケテル=創造原理のスフィア(エネルギーセンターのようなもの)の守護天使です。

アリストテレスは、全ての色は光と闇=白と黒の間に表われる、という説を唱えました。
白と黒。光と闇。この世界をこの世界たらしめている、究極の二元。
世界中の、古くからある創世神話や神学や、宗教や哲学や思想と呼ばれるものたちが、神さまはまず光と闇を分けた、と伝えてきました。
そして、そこにどれほど多様なものが生まれているように思えたとしても、この世界の全てのものは、結局はそのふたつの関係性でできているのだ、とも。

この世界の全ては、同じものでできている・・・。
だから、そもそも、わたしたちはひとつ。
同じものが、様々に関係し、繋がって、できている・・・。
だから、繋がることが、カギになる。

この世界の本質について、人々が伝えてきたこと。
それが、まさにそのようであるのだ、ということを、たとえば素粒子物理学といった、最先端といわれる科学は、思い出し、再び確かめることをしていたりします。

けれども、なんだか難しそうな学問に依ることをしなくても、私たちはほんとうは、知っているのだろうな、と思うのです。そして、忘れてなんかいないのだろうな、と思うのです。
集合無意識との繋がり、などという話を持ち出すまでもなく。
大切なことを伝え続けてきた人々と、同じに、同じことを。

無心でなければ至れないくらいの精緻さで繋がれた、白と黒。
そうしてつくられた美しい布たちは、たとえ意図せずとも、何かとても本質的な、大切なことを、伝えることができているものたちであるような、気がしました。

原点の香り
   ベティバー 1滴
   シダーウッド・アトラス 2滴
   サンダルウッド 2滴

ちょっとお願い。
e0170845_14503364.jpg

↑こちらの作品、元になっているのは、阪急(おそらく。阪神かもしれません。)の、駅のタイルなんだそうです。(重さんはこの作品をつくられた当時、関西にお住まいでした。)
関西在住のみなさま、もしそっくりなタイルを見かけたら、教えてくださーい。

そして奄美在住のみなさま、ちょうど奄美へ行かれるというみなさま、ぜひ、立ち寄ってみてくださいね。(5月9日までやっています。)
[PR]
by leaf-child0802 | 2010-04-21 15:10 | 奄美のこと | Comments(0)

Their Sweet Home

昨日も今日も「年に何度もない寒い日」になっている東京です。
ちょっと前から降り出した雨をじぃぃー…っと見ていたのですが、心なしか、雨粒の輪郭の重さの加減がいつもとは違う気がしました。
霙(みぞれ)なのかな??雪になるかな??

昨日の空も、いつそんな水の粒が零れてきてもおかしくないような模様をしていたのですが、とりあえずまだ傘を持っていなくて大丈夫でしょう、とのことだったし、風も穏やかだったので、用事を済ませに表参道まで歩いて行きました。
そして、道すがら、ある写真展をのぞいてきました。

島色 屋宮秀美 奄美大島写真展

少し前の朝崎郁恵さんのライブでもらったフライヤーの束の中に、告知の葉書が入っていたので、気にしてあったのでした。

会場は、少し路地裏を入っただけで、表通りの華やぎから一転、こぢんまりと静かになるところにありました。
エレベーターを降りた途端に寄ってきたのは、シマ唄の音色。
ちょうど、ライブが始まったところ、だったようです。
私も大好きな、「糸繰り」。それから、「行きゅんにゃ加那」と、「国直よね姉」。

私は、奄美の三味線の音色が、とても好きです。
沖縄の三線よりも、少し高いところをとおっていく音。
人々のいのちの水を、情感の湿度を、たっぷり含んでも重苦しくならないように…大丈夫なように…と心がけているみたいにして、いい感じに乾いている音。

鮮やかな芸能、ではなく、和やかな楽しみ、といった感じに唄われていたのが、素敵でした。
シマ唄がきけるつもりでいなくて、思いがけなかったので、すごくいいことがあったみたいな気分になれました。

山と海と空の、緑や青や、紅色や金色の雄大さのある綾ももちろん魅力的な「島色」なのですが、個人的には、女の人らしさを感じる、野の花の色をうつした写真がいいな、と思いました。



展示は手作り感がいっぱいの、ちょっと文化祭みたいな風情もある感じで、大切に飾られたいくつものお祝いの贈りものの花束たちが、どうしたって話してしまわずにいられないみたいにしている、たまらないうれしさの感じとか、真ん中に置かれた、お菓子が満載のテーブルと大きなソファとか、そういったものたちが存在感を示していて、写真展なのに、写真はむしろそんな色々のひとつ、になっちゃっているみたいだったのですが、そういうところでむしろ、屋宮さんをはじめとしたスタッフの方たちが大事にしたいと思ってらっしゃることが、伝わっているような気がしました。
親しい気持ちを持てるものたちが、集まってくれていること、とか。そういうものたちがあること・いることへの感謝、とか。そういうものたちを確かめられる心楽しさや、心安らかさや、心強さ、とか。

シマ人ではない私は、思うのです。
よそのお家の、カレーの匂い、みたい。

例えば、中孝介さんや、梨木香歩さん(鹿児島出身で、高校の同級生には、シマから来ている、という方が何人もいたそうです。)などがおっしゃっていました。
「シマの人たちは、内気かもしれない。閉鎖的なところも、あるかもしれない。」
…たしかに、そうかもしれません。
外交的・外向的に力を使って、何かを守ろうとする人たちもいるけれど、シマの人たちはむしろ、ひたすら「内」を大切にすることで、何かを守ってこられたのかもしれない・・・そんな気がすることがあります。
内へと向かう、力の強さ。

それでも、カレーの匂いみたいに、そのお家の誰かが、そのお家の中の人たちのためだけに作っているのだけれど、気配が外へと漂ってきてしまうことが、あるのです。
外にいる私は、いい匂いだなあ…と惹きつけられたりするのだけれど、そのお家に入ってしまう、なんてことをしようとすることは、もちろんなく。それを実際に分かち合ってもらって、味わうことをして、それがやがて身の一部になって…なんてできることは、もちろんあるはずもなく。

お家、というものは、そうそうやすやすと開放されるものでは、ないのですから。

けれど、その美味しそうなカレーの匂いが想い起させるものに離れたところからそっと憧れてみたりしながら、今日はウチもカレーにしようかな、と私は思うのです。
そして、自分なりのレシピで、美味しいカレーを作ってみるかな、と思ったりするのです。

憧れのお家の香り
   カルダモン 1滴
   マートル 2滴
   ローズウッド 3滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2010-01-12 14:05 | 奄美のこと | Comments(0)

人はなぜ唄うのか 後篇 言語

先日の朝崎さんのライブは、新しいCD(「阿母」)の発売記念、ということだったのですが、UAさん作詞のこの「阿母」という曲で初めて、朝崎さんは「日本語」・すなわち標準語と呼ばれているもので唄う、ということをされたのだとか。
それは素敵な歌詞だったのだけれど、いつもは奄美の、私にはまだ追うことのできない言語を使って唄われる朝崎さんの唄を、歌詞を追いながら聞く、というのは、新鮮で、でもなんだか少し緊張してしまうことでした。

語尾にそっと散りばめられた、小さな「ぃ」や「ぅ」や「ゅ」の音の余韻が優美な感じがする、奄美のシマことばで唄われるシマ唄。
一語一語を追う、というよりは、ただその「音」が響いてくるのを、そのゆらぎが浮かばせるものを、感じるに任せている…というのが、私のいつものシマ唄の楽しみ方。
頭を、ではなく、身体を、心を、もしかしたら魂を使ってきいている気がします。
それは、言語を理解するのではなく、音を、ことばを感じとる、という感じ。

そんな一方で、ものごころついた頃からピアノと一緒にいた私にとって、ピアノの音は、追うことのできる言語でもあるのです。

「絶対音感」というのは、音を言語化できる能力、なのだそうです。その楽器の世界で正確に通じ合えるように定められたかたちに、音を弁別できる能力、と言いかえることができるでしょうか。
それは、幼子が母国語を身につけていくのと似た感じで獲得されるものなのだそうで、そのために、幼児期の脳の特定の発達段階で訓練されないと、身につかないものでもあるようです。

「古畑任三郎」で、市村正親さん演じるある指揮者が、教え子を殺そうとした際、たしか部屋の水槽のモーター音が雨の音と奏でる不協和音に気が散ってしまい、耐えきれずモーターのコンセントを抜いて、そのままにしてしまったことから、犯人だと見抜かれてしまう、というお話がありました。
今回のライブでは、ピアノの他に、奄美の三味線や、雅楽器である笙や笛、筝も使われていたのですが、そういった楽器たちの音には、西洋音楽が定めたかたちには嵌りきらないものが数多含まれるので、件の指揮者さんみたいだったら、もしかしたら変な風に気になって、楽しむどころではなくなってしまうのかもしれません。
私の絶対音感は、そんな風に日常生活で不都合を感じるほどの繊細さではないので、そんな変則的な響き合いも、それはそれで楽しめるのですが、ただ、ピアノの音に関しては、やっぱりドはドと、ソはソと言っているようにしかきこえなかったりもします。なので、頭の中に譜面を描かずに、ただその音を感じる、ということをするのが、ちょっと難しく感じられることもあるのです。

けれど、朝崎さんの唄と引かれ合い、導かれ合って響いてくる高橋全さんのピアノを心地よく感じていた時、ふと、その音を言語として追っていない、頭に譜面を描くことをしていない自分に気付きました。
感情や、イマジネーションが、解放されていきました。

伝えたいことがあったから、それを正確に伝えたいから、人は音を、言語というシステムへと構築していきました。文字や譜面にして、書きとめて、手渡すことができるようにもしました。
けれど、音は、言語化されることで、窒息してしまうことがあるような、そんな風に思います。「象徴」であったものが、「記号」になってしまうことがあるような、そんな気がするのです。(「象徴」と「記号」について、以前少しお話したものはこちら。)
例えばケルトのドルイドや各地のシャーマンと呼ばれる人たちの術がそうですが、人は大切なことを伝えようとする時に、口承、というあり方にこだわることがあります。
奄美のシマ唄も、そのようにして伝えられてきたもののひとつでした。
身体に、心に、魂に。
音が引かれ合い、導き合い、響き合うこと。
そうしてそこに、いのちが呼吸を求めるように解放される、イマジネーションも、感情も、全てを大切に伝えていくためには、もしかしたら、窒息した言語では、十全に役目を果たせないということを、人々は知っていたのかもしれません。

ライブは後半になるほど、クライマックスの「六調」(奄美の宴のシメの定番で、皆で踊るための曲です。)に向けて賑やかになっていきましたが、そんな中で、響いて満ちた音の感触を反芻しながら、ひとり静かにそんなことを、考えていた夜でした。

ことばを伝える香り
   ティートリー 2滴
   ユーカリ・グロブルス 2滴
   レモン 1滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2009-12-08 14:52 | 奄美のこと | Comments(0)

人はなぜ唄うのか 前篇 共振

「晴れたら空に豆まいて」
…おまじないみたいな、どこか牧歌的で、それでいてなんだか不思議な言葉。
実は、代官山にある、ライブハウスの名前です。

昨夜、朝崎郁恵さんのライブを観るために、行って来たところ。

奄美のシマ唄の根っこでメジャーの音楽シーンに立っている、というと、まっ先に思い浮かぶのは元ちとせさん、という方が多いかもしれませんが、初めにそうしてそこに立ち、花を咲かせたのは、おそらく朝崎さんなのではないかと思います。
その鮮烈な独自性は、シマ唄をアートとして印象づけるのに十分の、力強さです。

そんな朝崎さんのシマ唄を、メジャーな音楽シーンに浸透させる溶媒となったのは、ピアノの音でした。
ピアノにのせて、シマ唄を唄う、というスタイル…そのスタイルを朝崎さんと共に確立されたのが、先日ライブにお招きいただいた、というお話をした、The Nature Sound Orchestraのメンバーでもある、高橋全さんです。

朝崎さんのライブを初めて観たのは、奄美に通い始めて間もない、2年ほど前のことでした。
池上本門寺で行われた、大規模なライブ。なんだか疲れを覚えるくらいに、圧倒されて帰ってきたことを覚えています。
今では、その頃よりも少しずつ、奄美との関わりを深くしている私。
今なら、あの頃には気付けなかったことに、気付けるかもしれない…。
折しも、高橋さんが全面プロデュースというかたちでのライブが、数年ぶりである、ということで、思いきって行ってみることにしたのです。

木の質感たっぷりの、アジアンテイストで設えられたその空間は、数十人もリラックスしたらいっぱいになってしまうぐらいの広さでした。
フロア内は禁煙だったみたいで、お客さんたちは誰一人として煙草を吸うことなく、紙コップに入ったジンジャーエールやビールではなくて、ちゃんとグラスに注がれた黒糖焼酎なんかを、黒糖の蒸しケーキだとか、鶏飯(けいはん。奄美の代表的な郷土料理で、ほぐした鶏肉や、錦糸卵や、パパイヤのお漬物などをのっけたご飯に、鶏でとったお出汁をかけていただきます。)だとか、お豆のおつまみだとかと一緒に楽しんでいて、ちょっと誰かのお家みたいな、「ライブハウス」にしては奇妙なくらいの健やかさもある空間でした。
そんな中に登場された朝崎さんは、お客さんにお身内が多いみたいだったこともあってか、とても自然にリラックスされているように見えました。



シマ唄は、時代の趨勢に翻弄され、時に虐げられもしてきた奄美の人々が、辛い日々でも生きていくために、そんな日々の中でも生きている・生かされているよろこびを忘れないために、大切なことを伝えていくために唄ってきた唄だ、ときいてきました。
その一方で、シマ唄のそもそもは、神さまと交わるために唄われた「カミ唄」であった、というお話もききました。

人はなぜ唄うのか。人はなぜ、唄おうとしたのだろう。

ふと、池澤夏樹さんの小説「バビロンに行きて歌え」の主人公である、中東の戦地から逃れてきた兵士のことを思い出しました。
生き抜く、ということに、苦しいほど真っ向から向かい合ってきたその若者の歌声は、やがて多くの人たちの共感を得て、求められるようになっていきます。
彼のプロデュースを頼まれてそのデモテープをきいた人物は、その歌声を、「人に向かって歌いかけていない」と説明しました。
「誰も聞いていないことを承知の上で、歌っている」ことの、「哀切」。
母を亡くしたある青年は、そんな歌声をきくことで、「大きすぎる不当感に押しつぶされたことを認め、それでもちゃんとそこに立っている自分を確かめる」ことをします。

平均律に調律された楽器という道具が奏でる旋律ではなくて、まるで波のように、雨のようにきこえる高橋さんのピアノの音と、自然のままのようにして唄う朝崎さんの唄声。
それは、やはりまるで、人にきかせるために唄っているのではないように感じられました。
互いが互いをのせ、共にゆらいでいきます…。
時に、激しさを増すことも、荒れ狂うことも、あったとしても。
雨が、いつか必ず、地面に落ちるように。
川が、いつか必ず、海に注ぐように。
波が、いつか必ず、岸に寄せるように。
諭そうとするのでも、楽しませようとするのでもなく。
己の存在を、想いを、意思を示そうとするのでもなく。
ただ引かれ合い、導かれ合って、響いている。
そんな音たちの感触が、そこには満ちていったのです。

その感触に、共振しながら、ここにちゃんと立っている。

人は、なぜ、唄うのか。人はなぜ、唄おうとしたのだろう。
それは、もしかしたら、そんな風にして、ここにこうしているのだということを、確かめたかったからなのかもしれないな、と思いました。確かめたいからかもしれないな、と思いました。

共にゆらいでいく香り
   マジョラム・スイート 2滴
   クラリセージ 1滴
   ベルガモット 3滴

…そんな感じで、後篇に続きます。
[PR]
by leaf-child0802 | 2009-12-05 14:28 | 奄美のこと | Comments(0)

世界の音律

昨日は、思いがけない素敵なことがありました。

先日このブログでジョー奥田さんの「AMAMI」というCDをご紹介しましたが、なんとご本人がその記事を読んでくださり、ちょうど六本木ヒルズでご自身が主催されるユニットのライブがあるということで、せっかく近くにいるのだから、とお招きをいただいたのです!

「こんなことって、あるんだなあ…。」
びっくりするのと、うれしいのとで、ちょっとばかり動転しながらも、もちろん、伺うことにしたのでした。

The Nature Sound Orchestra
ジョーさんの自然音に、藤井尚之さん(言わずと知れた、元チェッカーズ。その後のご活躍ももちろん、みなさんご存知のことでしょう。)のサックスと、高橋全さん(朝崎郁恵さんと共に、シマ唄をピアノで唄う、というスタイルを創りあげられた方です。)のピアノ…きっと素敵なライブになるに違いない、と、とても楽しみに出かけました。

場所は、六本木ヒルズの展望フロアの一角にあるMADO LOUNGE SPICE。

近所に住んでいることもあって、わざわざ訪れる、ということをしたことがないそのフロアから夜景を眺めたのは、昨夜が初めてだったように思います。
都心にいると、この街の果てはあまりに遠くて、辺りを埋め尽くしている人間が灯す煌々とした灯りは、地平線までをもあますところなくなぞっていました。
その上に拡がっているはずの夜空は、星影もなく奇妙なくらいに平らかで、ただひとつ、ラウンジの隅に腰掛けた私の目線のまっすぐ先に、木星が明るくくっきりと輝いていました。地平より、少しだけ空に近いところにいるせいか、この肉体を持ったままでも、そこへ行けるんじゃないか、と思ってしまえるくらいに、その輝きは、いつになく近しく、親しげにそこにあるように思えました。
現実感と、非現実感のバランスが、いつもとはまるで違うような、不思議な感覚が満ちてきます。ここにいる、という感覚を、いっそう注意深く意識しないといられないような、少しアンバランスな、バランス。

そんな不思議な空間に、ジョーさんが丹誠にとらえて、大切に運ばれた自然音が、注がれていきます。
波の音。雨の音。雷鳴。鳥の声。虫の声。空気の揺らぎ。水の揺らぎ。光の揺らぎ。耳を澄まさずにはいられない、愛おしい気配たちの感触。
そんなものたちへと、丁寧に差し出すように、委ねるように、音を手放していかれる藤井さんと高橋さん。
その音を大切に愛でようと、心をかけて静かに座っているお客さんたち。

そんなすぐそばを、煌びやかな都会の夜景を観るために展望フロアを訪れた人たちの、少し浮かれた無遠慮な気配が、途切れることなく通り過ぎていきます。
耳を澄ませているからこそ、いつになく、そこにある気配を、あまねく感じてしまうのです。

奄美から東京に帰って来ると、感覚をアジャストするのにいつも数日かかってしまいます。
東京では、shut outとはいかないまでも、色んなことをmaskして過ごしているのだなあ…と、思います。そうしないと、日々の恙無さを守れないような気持ちに、なってしまっているのだなあ…と、思います。

自然に生きる、ということについて、あらためて思いを深くします。

自然に生きるものたちは、居場所、というか、あり方、というか、世界の「律」のようなものを、自ずとわきまえているように思うのです。そして、どこかでそんな「律」のようなものが確かにあることを認められているから、たとえそれが人間の生活を時に脅かすようなものの気配であったのだとしても、わたしたちは、自然の音を「美しい」と、安心して、なんら抗うところなく思えるのだろうな、と思うのです。

そんな世界の音律に、心をかけていられるようでいたい、と思いました。そして自らの内にも、それを感じられるようでいたい、と思いました。
この世界が、ほんとうに心地よくあるように。
その音の響きが、美しく満ちるここであるように。

ジョー奥田さん、素敵な時間をありがとうございました。
そして奄美の神ぬ引き合わせに、感謝を。

世界の音律を感じる香り
   ローズマリー 2滴
   フランキンセンス 3滴
   パチュリ 1滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2009-11-22 12:54 | 奄美のこと | Comments(0)

耳を澄ませば

さすがに暖房器具のお世話になり始めた、ここ数日。
ほこほこのお布団から離れがたくて、ついぐずぐずしてしまう私に、「早く起きなよ。」と言うみたいにして、オオガスタの新しい葉っぱが、ぴしぴしと小気味いい音をたてて、日に日にその身を解いています。
e0170845_12344031.jpg

オオガスタの葉っぱは、小さいのが芽吹いて大きくなっていくのではなくて、充分に大きく準備されたものがくるくる・きゅっきゅっと巻かれた状態で出てきて、解けて、開いていくんです。

「植物はものを言わない。」などと言いますが、一緒に暮らしていると、彼・彼女たちもなかなか音に満ちた存在であることを、感じます。

最近、こんなCDを手に入れました。
e0170845_1259561.jpg

ジョー奥田さんの「AMAMI」。
奄美の自然音を独自の手法でとらえてらっしゃる奥田さんの存在を知ったのは、2年ほど前に青山のスパイラルホールで行われたイベント。
最近になって、知人のブログで彼のCDがあることに気付き、Amazonで購入してみました。(クリックでモノが買える…というのには抵抗があったのですが、洋書を探すのにあまりに便利なので、抗しきれずにAmazonデビュー、してしまいました…。)

自然音、というと、素晴らしくさりげないBGMとして、とか、リラックスするためにかける、というイメージがありますが、このCDは、ちょっとそういう風には聴けないかも、という感じがしています。
むしろ、耳を澄ませてしまう感じです。

都会よりも自然がいっぱいのところの方が静かだ、というのは、ほんとうではありません。
自然の只中は、ふくよかな音に満ちています。
都会の喧騒は、なんと薄っぺらいことでしょう。
その薄っぺらさが心許なくて、人間は殊更に、賑やかにしようとするのかもしれないな、と思うのです。

先日、奄美を訪れていた時のこと。
私が滞在していたホテルは、ちょっとした高台にあったので、浜までには坂と階段を数分歩くほどの距離がありました。
その夜はあまりに星がきれいだったので、ほんとうに真っ暗な中で、波の音だけを聴きながら眺めたらさぞ素敵だろうと、部屋に備えられていた小さな懐中電灯を頼りに、ひとり浜までおりてみることにしたのです。
新月の夜の闇は想像を超える深さで、結局、視覚以外の感覚を頼りながら、なんとか浜にたどり着くことができました。
ほっとして星空を見上げ、その美しさへと自分の全ての感覚を開放した瞬間。
星の光、だけでなく、波の音、だけでなく、
あっという間に私の感覚は、そこにいることを懸命に語っている数多の音たちで、いのちの気配たちで、苦しいくらいにいっぱいになってしまったのです。
空ろなところなんて、少しもないくらいに、いっぱいに。
みんなが、抱きついてくるみたいで、ふと、帰れなくなる、と思いました。
歩数を覚えておかないと、ホテルへ戻る階段を見失いそうだったし、そういえばハブがいるかも、と我にかえり、早々に帰ることにしたのでした…。

初めて奄美を訪れた時、この島の気配は、まるで幼子のようだ、と思いました。懐こく纏わりついてくる、幼子みたいだ、と思いました。
秘めるということが出来ないみたいにして、他にあり方を知らないみたいにして、生きたいと言い、生かされたいと言っているみたいな、か弱さと、危うさと、潔さと、力強さに満ちた、いのちの気配を感じました。抱きしめたくなるような、愛おしさを感じました。
我が子を眺める母親は、きっとこんな気持ちになるのだろう、と思いました。生きたいと言うものを、生かしたいと思う、よろこびと、苦しさに満ちた気持ち。

そんな場所だったから、きっと自分が思うよりずっと、本能的、といっていいぐらいに、感覚を開放しきってしまったのだと思います。澄んだ底に届こうとするものを、受け容れようとしてしまったのだと思います。
それほどに無防備になることに、慣れていなかったので、あの浜での体験は、ちょっとこわいようでもありました。
でも、自然に生きることとは、そういう感じなのかもしれないな、とも思うのです。
いのちの気配に、いつだって耳を澄ませて、わたしたちが気付こうとしているのは、よろこびであるような、そんな気が、しています。

いのちの気配に耳を澄ます香り
   クラリセージ 2滴
   カモミール・ジャーマン 1滴
   マンダリン 2滴
[PR]
by leaf-child0802 | 2009-11-19 14:37 | 奄美のこと | Comments(0)