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ことの葉暦

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カテゴリ:奈良のこと( 3 )

春を告げる炎

さて、これは何でしょう?
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もうちょっと引きで、全体像を。
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答えは、立派な竹たちでした。
先月、奈良の二月堂に行った時に、出会った光景。
「お松明」の準備です。

「暑さ寒さも彼岸まで。」と言いますが、
「お水取りが終わると、奈良にほんとうに春が来る。」というのが、奈良の人間の季節の感覚です。
「お水取り」というのは、東大寺でこの季節に行われる「修二会」という行事(お坊さんたちが、特別な行をされます。)のこと。
ほんとうは、「修二会」の行のひとつが「お水取り」なのですが、私たちは「修二会」全体を呼ぶ時にも、だいたいこちらの言葉を使っています。

そんな、奈良に春を告げる「お水取り」のハイライトが「お松明」です。
写真↑の立派な竹たちで作られた松明を掲げて、行者が次々と二月堂の舞台(=バルコニーみたいになっているところ)を走り抜けます。
舞台の欄干を支えにして、下で観ている人たちの方へ炎をぐんと突き出したり、ぐるぐる回したり・・・これがかなりのスペクタクルなんです。

ちなみに私は、これに見とれていて、降ってきた火の粉でコートを燃やしかけたことがあります。隣で観ていた見ず知らずのおじさんがいち早く気付いて、友人と一緒に叩き消してくれたので事なきを得ましたが・・・。もっともこの「お松明」の火の粉をあびるのは、とても縁起のいいことだと言われています。
今日12日は、とりわけ大きな「籠松明(大松明、と呼んだりもします。)」が出る日。のんびり出かけたのでは、お寺の境内に踏み入れることさえ難しいぐらいの人出に、なっていることでしょう。

それにしても、世界遺産になるくらいの文化財の中、しかも木造で、本来火気は厳禁中の厳禁のところで、炎を振りまわすのですから、よく考えたらとんでもないこと、ではあるのですが。(ちなみに奈良では、東大寺や春日大社のすぐ背後にある若草山をまるごと焼く、という、やっぱりよく考えたらとんでもない行事も、年に一度やっています。)
松明の炎の灯りのほかは全くの暗闇の中、目を凝らしてみていると、実は、松明にはちゃんと、伴走者がいて、飛び散った火の粉をすかさず小さな箒のようなもので始末していることに気付きます。
大切な何かを守ろうとする気合いと、心配りが、そこにはしっかり感じられます。

もうこの行事は、1300年近く、何があろうと途切れることなく、続けられているのだとか。
そしてそれは、悔過(けか)=懺悔のために行われているのだそうです。
懺悔。すなわち、過去に罪があったことを認め、悔いていることを告白し、改めようと誓うこと。
そしてその上で、行者たちは、世の安寧を、人々の幸せを、祈願するのだそうです。

だから、お「水」取り、と言いながらそこに、炎、なのでしょう。
火と水には、ともに清める/浄める力があります。
ただ、水のきよめ方は、還元させる、といった感じがあります。けがれのない、そもそもの姿に、戻す、という感じ。そこには、この世に在るものの元(例えば、大いなる自然、とか、ワンネス、と考えてもいいかもしれません。)のきよらかさへの、無意識的なぐらいに圧倒的な信頼、があるように思います。
一方、火のきよめ方には、変質/変成させる、といった感じがあります。そもそもあるけがれを、苦しみと気付き(灯火=光は意識の象徴でもあります。)を得て、きよいものへと変える、という感じ。けがれが、なかったことになるワケではない。けれどそれがあったからこそ、今もあるのだ、という感じ。
過去であるとか、罪であるとか、そういったものが、そもそもの自らの本質の一部を絶対的に成していると考えるかどうか、で、きよめられた、と思える時の感覚も、それぞれになっていくのだろうと思います。

昨年だったか一昨年だったか、NHKだったか、TBSの「世界遺産」だったか、定かではないのですが、本来は私たちがみることのできない行の光景が、放映されたことがありました。
奈良の寒さは、厳しいのです。殊に陽が落ちた後、山に縁取られた盆地という器の底でしんとなった空気は、痛いくらいに冷たいのです。
そんな空気を、ただろうそくや、月や星の明かりだけが照らす中。ひたすら悔過と祈りに、己の身と心を捧げている行者の姿に、震えました。
ひっそりと隠されたところで、懸命に、世の安寧と、人々の幸せを祈ることに、己を捧げている誰かがいる・・・。
人間は、小さく、弱く、力ないけれど、その光景は、心強さを感じさせてくれるものだったのでした。

春は、いのちが浄化を経て新たなスタートをきろうとする季節。
春分を境に、十二星座も新たなサイクルをスタートさせます。
今年は、お水取りが終わってすぐに、新月もやって来ます。
あと少し。しっかり備えましょうね。

春を告げる炎の香り
   フランキンセンス 3滴
   パイン 2滴
   シナモンリーフ 1滴
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by leaf-child0802 | 2010-03-12 14:46 | 奈良のこと | Comments(0)

いまひとたびの、奈良へ 本編 その2

清々しい。
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ここは、春日大社の参道すぐ脇に広がる、「飛火野」というところ。
春日山を一望できる、とてもとても気持ちのよいスペースです。
大切に護られてきた春日山の森は、原生林/原始林のかたちをとどめていているのだそうで、そんな太古の森が、市街地のすぐそばにあるのはものすごく珍しい、貴重なことなのだとか。
課外授業なんかで気軽に訪れていた、奈良育ちの私にとっては身近な森。鬱蒼と深いのに、植物たちのいのちの、屈託なく澄んでいる光がやさしく満ちて、安らかに明るい森です。いつまでもいたくなるような、ほんとうに心地よい森なのです。

そんな森から流れてくる風を受けとめようと開いているような、飛火野。
フンコロガシ、という珍しい昆虫が棲んでいることでも、有名です。
フンコロガシ=スカラベは、古代エジプトにおいて、大地=地平線から生まれ昇る太陽と、復活・再生のシンボルとされていた、聖なる虫。
ここでは春日の神さまのコンパニオンである鹿たちと、仲良く暮らしています。

冬の終わりの、春の始めの、雨の後の、うるわしいお天気。
澄んだ空の青は、高いようでいて、ひたひたとした肌触りさえ感じられるようで。
呼吸のたびに、美味しい水を飲んでいるような。洗われていくような。
そんな清々しい日でした。

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この野原にはとても立派な樹が何本もいるのですが、↑は、松ばかりが、サークルをつくるみたいにして立っているところ。
たしかこの辺りでは、薪能の奉納が行われたことがあったように、記憶しています。(小学生の頃剣道少年だった弟が、その前座の試合に出たことがあったような・・・。)
能というのは、アニミズムやシャーマニズムに繋がるものを、そのルーツに持っていると考えられていて、能舞台の背景に描かれている松には、神さまが降りてくるための依り代の意味があるのだそうです。長寿・永世・生命の樹である松。しかもその松が、始まりと終わり=永遠であり全て、のシンボルであるサークルをつくっているのですから、これは神様も、ここに降り立ってみたいな、と思われることでしょう。

私の一番のお気に入りの樹は、このコ↓。
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伸びやかな楠。
人間の都合で剪定などをされることがないその枝ぶりの、屈託のないこと!
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風や光を存分に受けとって、ご機嫌な、可愛い声で唄ったり、お話したりしています。

ちなみに、このとりわけ立派な樹々たちの周りには柵が設けられていて、すぐそばまでは残念だけれど、行けないのです。
けれども鹿たちは、その柵を軽々と飛び越えています。
きっと柵は、鹿たちが樹皮なんかを食べてしまうのから、樹々たちを守っているのでは、ないのでしょう。
根っこが踏まれ過ぎないように、そして故意に傷付けられないように、人間たちから、守っているんだと思います。
大切にしようとするからこそ、ではありますが、ちょっとかなしい眺めでもあります。

パワースポット、なるものがブームらしいこの頃ですが、由緒とかご利益とか、そういうものが語られなくても、いのちや、自然や、この世界のありさまの気持ちよさと心地よさをよろこばずにいられなくなれるなら、そこはまぎれもないパワースポットなんじゃないかな、と思うのです。
ここは、ほんとうに元気になれる、素敵なパワースポット。
ここがいつまでも、健やかで安らかでありますように…。

飛火野の香り
   パイン 1滴
   シダーウッド・アトラス 1滴
   ローズウッド 2滴
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by leaf-child0802 | 2010-02-23 16:07 | 奈良のこと | Comments(0)

いまひとたびの、奈良へ 本編 その1

とっても奈良っぽい風景。
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「春日さんへのお参りだけは済ませなくちゃ!」と、ひたすら参道を歩く・・・という感じの訪問がたいていだった、ここ数年・・・。
けれど、いかにも奈良っぽい、ほっとできるこんな風景には、寄り道をしちゃえる気分でいないと、ちゃんと出会えなかったりもするのです。
これは、久しぶりに、参道の脇道を、咲き揃い始めた梅に誘われるようにして逍遥していたら、ぽっかりと開けた眺めです。
浮見堂を背景に、のんびりと草を食む鹿さんたち。仄かに春の気配も感じるうらうらとした陽が、心地よい。

春日大社の神さまが、この地にやって来る時に、乗せてもらったのが、鹿。奈良の鹿たちは、神さまのコンパニオンなのです。
なので、この鹿さんたち、大切に、なにかとcareもされてはいますが、あくまで「野生」ということになっています。「そのまま」が、ちゃんと尊ばれているのです。人間の営みの都合に沿うことを求められてしまう「ペット」では決してないのです。

「野生」の獣が、こんなに自然に、堂々と大らかにいる街は、他にはないのではないでしょうか。
奈良は、大都会、ではないけれど、人間がつくったものの比率がそれなりの大きさを占めている都市です。けれども、そこには鹿たちが、変に緊張も警戒もすることなく、かといって、自然なあり方へのわきまえを見失わされることもなくいられるスペースが、ちゃんと自然にあるのです。

奈良公園は、私の中学・高校時代の通学路で、毎日ここをバスで通っていたのですが、ちょっと遅くなっちゃったかも…と、どきどきしている朝に限って、赤信号でもないのにバスが止まることが、しばしば。
前をのぞきこむと、そこにはたいてい、ゆうゆうと道を渡っていく鹿の姿があったものです。
けれど、そんな扱いに、鹿たちが傍若無人になることは、決してなく。
校庭の花が食べられたりしてしまったのも、奈良にしては珍しいような大がかりっぷりだった「シルクロード博」なる催しのせいで、彼らが居場所に困ってしまっていた時だけでした。

奈良にいると、自然とのんびりしてしまうのは、ふるさとだから、ということだけが理由では、きっとないのでしょう。
人間と獣が、程よい距離と互いのスペースを保ちながら、自然な心地よさで一緒に暮らしている街・・・奈良は、そんな街です。
自然との共存、とか、調和、とかが、意識されるようになってきたこの頃ですが、知恵とか思想とか技術とか未来への展望とか・・・殊更に大仰に語ったりしなくても、ほんとうはきっと、大丈夫なはずなのです。
自然に、自然な感覚を持てている・・・その心地よさと、大切さを、自然に確かめられる街・・・奈良は、そんな街です。

奈良の香り
   サンダルウッド 1滴
   パチュリ 1滴
   マジョラム・スイート 2滴
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by leaf-child0802 | 2010-02-20 15:29 | 奈良のこと | Comments(0)